「老人になると幼児に戻っていく」などとよく言われるが、アルツハイマー病などにより、脳が学習によって身に付けた習慣や知識を失っていくと、きわめて幼稚な行動が現れることがある。精神医学では退行現象と呼ばれるもので、口に指を近づけると、自然にそれをくわえたり、歩行が困難になった時に、背中を丸めて小さくなってしまうといった行動様式がそれである。これらは霊長類のもっとも原始的な姿にほかならない。
記憶が生活のなかでいかに重要な役割を果たしているかを知るには、アルツハイマー病で海馬が機能しなくなった人の行動様式を観察すればことたりる。皮肉なことに、私はアルツハイマー病を研究するなかで、人間がもともと持っている能力の素晴らしさを再認識した。精巧な脳の万能性を見せつけられたとでも言おうか。
自著「透明な脳」より