ブログを読んで頂いている皆様へ。
2ヶ月の入院生活を終え、11月28日から診療を再開しております。
ご迷惑をお掛けしました事、この場を借りてお詫び申し上げますと共に、今回は入院生活から教えらたことの重要性を私見として述べてみます。
病院といえども一つ大きな組織集団であることには変わりはなく、その組織に役割分担された人々が駆けずり回って、与えられた責務を果たしていることは皆様もご存じのことであります。この組織を運営しているのは人間に他なりません。なぜ、人間の存在を強調するかと云えば、人間という言葉は人と人の様々な繋がりがあって、人間と云われる存在となるのであり、このことを無意識に且つ自明のことと想っておられると私は判断します。
私見的分類として、組織的人間(人間で在る前に雑踏の中に在っても組織と言う言葉に染められた人間)、単に社会に居るからの人間、人(3食と風雨をしのげる)、ヒト(食を求め、命の根源に存在する)と考えます。
昭和の時代から平成の時代に入り、それから23年経た平成人は、組織的人間に更にデジタル言語のみが上乗せされ、それ故に行為及び行動に於いて、他者への「曖昧さ」や「余韻の響き」が消失しかけている人間が増加傾向であると見ています。
このような社会で、孤高・孤独・かつ創造的或いは想像的存在の人との触れ合いが、アナログ的または余韻の響きがない環境に在るのではないかと私は推察せざるを得ない。そのような社会環境に在るのではないかと考えている。
つまり私が言いたいのは、人と人の会話が速いスピードで失われていっているように感じる事であり、豊潤な会話とかたわいもない会話が現在の平成人から失われているように想えてならない。科学技術の発達におけるメリットは在るが、祗園精舎の鐘の声の響きが今は無い。平成の現在がそうであるなら、生きるとは何かを考えざるを得ない。その『生きる』言葉を創り出したのは人類の進化の結果であり、『生きる』がロボットの方向へ流れて行けば、『対話』の世界は自然消滅するだろう。
この2ヶ月の期間に思い立ったことを述べたが、『生きる』故の人間存在で在りたい。
師走 平成23/12/8
今川正樹